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このプログの特徴と使い方

 「 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、」Iヨハネ1:1

 「いのちのことば 新約」を見てくださり、ありがとうございます。
 これは私が聖書を読んで、感じたことの散文です。ある時は聖書そのものから、またある時は注解書から気づかされたことなどを自由に書いています。また、1節1節の講解でもありません。
 読まれた方が、刺激を受け自ら聖書を読もうと思われたら私の試みは成功したと言えます。

 ただ、ブログ形式のために、聖書の順番ではなく、むしろ逆となるなどの不都合も多々あります。
 そこで、いくつかの点で工夫が必要となります。
 1.カテゴリをクリックする方法。ヨハネ、使徒等の最後に行くことが出来ます。
 2.月別アーカイブをクリックする方法。
 3.検索フォームを活用する。たとえば、「祈り」と入れると、該当する5箇所が検索されます。
 4.文章途中に緑色の文字があるところをクリックすると、該当する箇所に飛ぶことが出来ます。
 5.タイトルの最初は聖書箇所、最後は通し番号になっています。

 一番最初にカテゴリのIIテモテから読んでください。「聖書」のテーマで書かれている箇所です。
簡単な入門コーナーを設けました。気軽にご覧ください。
 聖書 神とは 人間 礼拝

※更新がままならない時がありますが、寛容な心で接してください。
 なお、写真は今まで撮ったものを活用しています。
 それでは、よろしくお願いします。
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使徒8:5 キリストを宣べ伝えた 5-75

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 「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」使徒8:5

年末になると年賀状を書きます。作成だけでなく、宛名書きなど多くの時間を費やします。クリスチャンの人は、何か聖句を入れることがありますが、私も含めて自分の抱負や意思などを表すものが多いのが特徴です。

 また様々な人に会い、長時間話すことがありますが、よくよく振り返ると「キリスト」の事を宣べ伝えてはいません。
 確かに信仰に関することは話したかも知れません。しかし、キリストご自身を伝えていないのです。

 教会の礼拝においては、聖書が読まれ、メッセージが語られますが力点は奉仕することであったり、祈ることであり、伝道すること、悔い改めることなどであったりします。

 時間の割には、キリストご自身のことがあまり語られません。

 しかし、ピリポは違いました。人々にキリストを宣べ伝えたのです。
 私たちも個人において、また教会においてもキリストを宣べ伝えるべきです。

使徒8:4 みことばを宣べながら、巡り歩いた 5-74

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 「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」使徒8:4

 ここは、最初に伝道をした人たちの事が書かれています。普通ならば、よく訓練を受け意欲満々な伝道者が巡り歩いたと書かれるはずですが、現実は違っています。

 「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり」8:1
 「サウロは教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」8:3

 一般的には、順調なときに良い働きができ、困難なときには停滞します。しかし、こと伝道に関しては、大きな例外が生じるのです。
 ステパノが殺され最初の殉教者が出たとき、そして、迫害が起こり荒らされ、引きずり出され、牢に入れられやむなく散らされたそのときから、伝道が始まったのです。

 人を殺し、人を捕らえる破壊的、サタン的な暴挙だけが起こったのではなく、全く別な福音宣教がこのときから開始されています。
 人の計画は目に見えますが、神の計画は一見悲惨な状況に見えるただ中で、最善がなされるます。

使徒7:60 この罪を彼らに負わせないでください 5-73

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 『そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。』使徒7:60

ステパノは最も不当な仕打ちにあっていましたが、彼の魂は神を仰ぎ見ていました。それゆえに、ひざまずいています。そして、この上もなく大きな声で、叫びました。最後の力をふりしぼり、とりなして祈ったのです。「
 主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」

 主イエスキリストも、自分を十字架につけた人々にこう言い、祈りました。
 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

 ステパノの祈りは、聞かれています。
 ステパノの石打の刑に立ち会い、後にイエスキリストを信じる者を捕らえ、死に至らせたサウロ(後のパウロ)に対して、復活の主は何もとがめませんでした。

 最後ですが、そしてステパノは死んだと書いていません。眠りについたと聖書は記します。
 勿論、死の意味合いもありますが、やはり来るべき時によみがえることを含んだ眠りについたと言うべきです。

使徒7:59 私の霊をお受けください 5-72

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 『こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」』使徒7:59

 人はいざというときに、その人の真価を現します。普通は身に危険が及んだとき、理性よりは本能が現れるものです。
 ステパノに石を投げつけてとありますが、58節では石で打ち殺したとあり、通常は人を上から落とし、殺すことができる程の石を大勢で投げることを意味します。

 信仰と聖霊に満ち、「天が開けて人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言い得たステパノであったがゆえに、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と言うことができました。

 口語訳は、次のように訳しています。「ステパノは祈りつづけて言った」
 心から、或いは魂からの叫びは、主イエスに向かっていました。そして、私の霊をお受けくださいと、完全に自らを明け渡したのです。

 主イエスキリストが、十字架上で言われたことばを思い出します。
 『イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。』ルカ23:46

 なんと気高い、崇高な神への姿勢でしょうか。肉体・精神における大きな苦しみの中でも、魂が救われている者の最後は霊なのです。

使徒7:56 人の子が神の右に立っておられる 5-71

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 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」使徒7:56

 十字架につけられ3日目によみがえり、天に帰られたキリストは神の右に座しておられます。
 神の右は、新訳に8箇所登場しますが2回はステパノの説教の時です。

 そして、ステパノは人の子(キリスト)が神の右に立っておられる姿を見たのです。理由が、55節に書かれています。
 「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、」7:55

聖霊の働きは色々ありますが、聖霊に満たされた者の特徴はステパノの姿に最も現れています。すなわち聖霊に満たされる者は、私たちの目前ではなく、天を眺めることができ、神の栄光(ひかり)と神の右のイエスを見ることができるます。

 聖霊に満たされた者は、目に見えない天を見つめ、天の情景を見ることができるのです。
 使徒6:5には、「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」とあります。

 信仰、聖霊に満ちることに正比例して、天を仰ぎ見、神の栄光とイエスを見ることができます。

使徒7:54 人々はこれを聞いて 5-70

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 「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。」使徒7:54

 「これ」は、53節のステパノの指摘でした。
 「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
 その前の、「いつも聖霊に逆らっている」7:51、「今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。」7:52

 「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」ヨハネ16:8

 聖霊は罪を指摘し、何が正しいか(義)、神の裁きを認めさせます。しかし、聖霊に逆らう者は、認めることを拒むのが特徴です。
 大祭司をはじめ議会の人々は、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしました。口語訳は「心の底から激しく怒り」と記し、「心を殺す」との意味合いを持ちます。

 歯ぎしり(身震い)して、自らの心をずたずたに殺したのです。

 聖霊によって自らの罪が指摘されたときに、人は二つに分かれます。悔い改める者と殺意を抱く者です。悔い改める者は、十字架の血潮により、罪を赦されますが、逆らう者は自らで自らの心をずたずたに殺す方を選択してしまいます。

 聖霊が働かれるとき、また神のことばが聖霊を通して語られるとき、私たちの判断は私たちの生死を分けるほど厳粛なときとなります。私たちは、このことをよくよく心しなければなりません。

使徒7:51 いつも聖霊に逆らっているのです 5-69

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 「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。」使徒7:51

 旧約のモーセが、神に対して「口べた」と言ったところを見ると、「くちびるが無割礼」と言う意味でした。
 くちびるが神に触れられたとき、神のことばを話すことができます。
 
 かたくなである者は、心と耳が神に触れらていないのかも知れません。だから、心が神に開かれておらず、神の方に思いが行きません。そして、神のことばを聞き分けることができないのです。

 イエスキリストは、罪人を許すために来られ、十字架にかかられましたが、赦されない事があると言われています。
 
 「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。」マタイ12:31

 聖霊は、私たちの心をキリストへと導き、聖書のことばに従うように働かれます。目には見えませんが、いわば、私たちの側に具体的に働かれる方なのです。
 そして聖霊に逆らうのは悪魔や悪霊の働きであり、私たちの内に潜む肉の働きです。

 だから、私たちの行動を決定する心が開かれ、神のことばに耳が開かれないならば、結果的には聖霊に従うことができず、逆らうのです。

 私たちは、いつも心が神様によって取り扱われるよう祈り、神のことばを聞き、聖霊の導きに従う事ができるよう願い求めなければいけません。

使徒7:39 エジプトをなつかしく思って 5-68

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 「ところが、私たちの先祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、」使徒7:39

 ステパノは続いて、私たちの先祖たちは彼(モーセ)に従うことを好まず、モーセを退け、奴隷であった頃のエジプトをなつかしく思ったと語ります。
 そして、神が指導者また解放者として立てたモーセを、イスラエルの人々が退けたように、彼らの子孫は神が立てたイエスキリストを好まず、退けたことに重ねました。

 ここで気になったの、懐かしく思ってという言葉です。口語訳では、「心の中でエジプトにあこがれて」と訳されていますが、エジプトに心を向ける(返す・戻す)という意味になります。

 従わない、退け、なつかしく思うところは私たちの心です。
 そして、救い主イエスキリストにお出会いする前の、古い自分・罪の奴隷の頃の自分や昔に心が向くときは要注意です。

 結果は目に見えています。必ず神を退け、破滅へと向かいます。
 私たちは、何を好み、何を退け、何を懐かしんでいるでしょうか。そして基準となる心の状態はいかがでしょう。
 昔ではなく、天におられる神に心が向き、イエスキリストを仰ぎ見るとき、聖霊の導きによる将来が開けます

使徒7:35 解放者としてお遣わしになったのです 5-67

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 『「だれがあなたを支配者や裁判官にしたのか。」と言って人々が拒んだこのモーセを、神は柴の中で彼に現われた御使いの手によって、支配者また解放者としてお遣わしになったのです。』

 これを語っているステパノは、人々が拒んだモーセがイエスキリストを指し、イエスこそ神によって遣わされた支配者また解放者であると言っています。

 「解放者」ということばは、ここにだけしか登場しません。動詞は身代金を受け取って解放するであり、少し変化すると身代金を払って釈放する・身請けする・贖うの意味となります。

「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」ヘブル9:22

 イエスキリストだけが、神によって遣わされた支配者また解放者に該当します。なぜなら、イエスキリストだけが、私たちの罪のために十字架上で血を注ぎだし、罪の赦しのための購いとなられたからです。

旧約の贖いは、こちらを参照してください。
 ルツ2:20 買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです 8-14

使徒7:31 その光景を見たモーセは 5-66

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 「その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。」使徒7:31

 御使いが柴の燃える炎の中に現れた光景は、元の言葉をみると「幻」であることが分かります。
 神が人に示される方法は直接・御使いを通して・夢の中で・幻・志を与えることによって・聖書の言葉による等々の方法をとられます。
 しかし、出エジプトの啓示に関しては、御使いを現し、幻を通し、そして直接御声をかけられたのです。

 確認ですが、幻(ビジョン)は神が語られるものです。よく指導者たちによって、今年のビジョンはなにがしと使われるのとは異質のものです。
 これらは、人々や自分自身を鼓舞する標語にしかすぎないことがほとんどです。そして、そのビジョンがならなくても、翌年には別のものが登場します。

 使徒2:17
「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」

 神の霊が注がれたとき、人は神によって与えられる幻を見るのです。

 モーセは、幻を見、主の御声を聞いたのです。

使徒7:30 四十年たったとき 5-65

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 「四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現われました。」使徒7:30

 40年前、モーセは同胞のイスラエル人を虐待している人を、かばう動機とはいえ殺して逃げています。日本語では、「たったとき」ですが、原文には「成就する」意が含まれています。
 40年はただ単なる時間の経過だけではなく、モーセを出エジプトのリーダーとしての訓練の時でもありました。

 背後には、全能の神が働いておられ、40年たったとき(成就)、御使いが炎の中に現れました。

 神のご計画においては、すべてにおいて時があります。エジプトの王子として育てられたモーセにとって、その地位から逃げざるを得なかった期間は、人間的には惨めに思えたかもしれません。しかし、逃げただだ中に神はおられ、時を用意されていたのです。

 私たちもまた、成功や良いことばかりではなく、失敗し後退するときがあります。
 しかし、忍耐を持って神が用意してくださる時を待つならば、訓練され神のご用のために整えられた者となるのです。
 神が用意されたとき、モーセのような方法ではないかもしれませんが、信仰によって理解できる時があります。自分が行きたい道から、神が用意された道を歩くためにはそれぞれの期間が必要です。
プロフィール

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Author:t.family.c


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高槻ファミリーチャーチ牧師 吉田修三
聖契神学校卒業後、20年間岡山で牧師を勤めました。妻、長男、長女の4人家族ですが、長男と長女は就職でともに県外にいます。パピヨンの犬と共に、夫婦二人で生活しています。



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